平成16年(2004年)8月30日 月曜日
産経新聞

作家 阿久悠
オリンピックの詩
国を見る 人を見る

 四年というのは、たとえば国威の賞味期限のようなもので、自らの国であれ、他国であれ、国としての輝きを見せているか、勢いを秘めているかを確認するのに、ちょうどいい長さである。
 奢るにしろ、沈むにしろ、四年ぐらいが一つの周期で、それ以上続くことはめったにない。四年を超えて傲慢と悲惨が継続しているとしたら、それは国の病気というべきもので、問題は深刻、個人の感想の域を超える。
 オリンピックは、多くの人々が枕詞として語るように、古代から始まる神と人間の祭典であるが、もはや近代では、国を抜きにして考えることは出来ない。
 きれいごとでいうならば、人間の美と力の競い合いを神に供ずることだろうが、現代の人々は、ただ力があり、技に秀れて、しかも美しいというだけではシンパシーの持ちようがなく、国の代表という保証があって、はじめて安心して感動するのである。
 国の代表であることでようやく人間は、揶揄と誹謗と嫉妬とヒステリーを捨てて、強き者、上手き者、美しき者への喝采を送ることが出来るのである。
 だから、オリンピックと国とを離して考えることは出来ないし、その資格とか、枠とか、保証とかを取り外した途端に、ただの広場の遊びとなるのである。それでも、神が存在した時代なら、それもよかろうが、自らの神を決めかねている現代ではそれも成立しない。
 ということで、ぼくは、オリンピックでは国を見る。国威の賞味期限を確かめる。そして、それぞれの国の人々の愛国の意識を探る。それによって、国がどちらへ向かおうとしているのか、見当がつくことがある。
 四年という年月で、国や人がどう変化しているかは、自身で走ることが出来ない。しかし、二百を超す国や地域が集う中に混じると、熱戦感知器のように、過剰な熱を発していることがわかるので興味深いのである。四年で変わる。
 国威の威が、尊厳なのか力の誇示なのか、どういう形で表現されるかを見ているだけでも、いろいろなことが占える。
 品性を欠き、ただ力を信じるだけの国の威と、その空しさを既に知り、威が圧迫ではなく尊敬だと知った知的な国と、それらははっきりわかる。
 大量のメダルを獲得するにも、奪い取り、椀ぎ取ったのと、誰もが納得して尊敬とともに与えられたのでは全く値打ちが違い、ぼくは後者の方を国威と感じるのである。
 このアテネでのオリンピックが、ぼくの気持ちを清浄にさせたのは、二つの美である。
 一つは、ギリシャという国が、あるいは、アテネという都市が、商業五輪というおぞましさに、少なくとも歯止めを掛けようとしたことである。
 真実はわからないが、少なくともぼくらが見る目には、あるがままの都市の中の、あるがままの人の祭典に見えたことは確かで、金の匂いも薄いかと思えた。美である。
 そして、もう一つは、日本の若者たちが勝利を通じて世界に知らしめた美、美しさの証明であった。敗者の美は伝えやすいが、勝者の美は理解され難い。それを彼らは表現した。
 柔道、体操、水泳に限らず、どの競技のメダリストたちも、正しく戦って、きちんと勝つことを心掛け、決して、法の解釈の抜け穴的勝利を狙わなかったことである。誰もがサムライの心のまま勝った。
 大仰な言い方をするなら、アテネでの日本の若者たちは、長い年月ぼくらに投げつけられていた「醜い日本人」という汚名を、「美しい日本人」に塗り替えてくれた。
 これが国威である。幼児が可愛く、青年が美しい国が勝つのである。