石原慎太郎氏(70)は、阿久悠氏(66)に会うなり言った。「やっぱり、あれやりましょうよ、青春論」。「いいですねえ」と阿久氏。今夏の緑陰対談はこうして、石原氏の歌声も入りながら、どんどん進んだ。(平田篤州、湯浅明)

あの頃の貧乏懐かしい
石原氏「陽中模索」…情報がないこともいいこと


阿久氏 青春といえば、僕にとってはトラウマみたいな(笑)、「石原慎太郎」と『太陽の季節』をどうとらえるかと…。
石原氏 阿久さんは何年生まれでしたか。
阿久氏 僕は昭和十二年。『太陽の季節』を書かれたときは、二十四、五歳ですか。
石原氏 二十二歳。大学三年のときですから。
阿久氏 じゃあ、もっと若いんだ。僕は十八歳でした。
石原氏 あのころ海岸で三角ベースの野球なんかやってたなあ。『瀬戸内少年野球団』というのはもっとナイーブなんでしょ。
阿久氏 映画にしたあと、(湘南高校出身の)佐々木信也氏(野球評論家)と対談をという話があって、戦後の苦しいさなかで、どう野球にめぐり合ったかという話を二人にさせようという気だったらしい。僕のほうは全く道具もないから、石器時代みたいに木を削ってバットを作ったりしている。佐々木君に聞いたら、「いやあ、道具はありましたからね」と。
石原氏 湘南は割と豊穣な地域だから。海軍士官のベッドタウンだったからね。僕は旧制の湘南中学に入って戦争中も、英語の教育を受けた。海軍士官に必要だからって。
阿久氏 涙ぐましい少年の純なところをというのが主催者側の気持ちだったんですが、全くかみ合わなかった。
石原氏 そう思いますよ。戦争中は、海兵へ行って士官になれといわれていた。だが、戦後は貧困の時代だったけど。
阿久氏 僕はね、大学のとき貧乏だとは思っていなかった。あの当時の学生って、みんな畳一枚千円の部屋を借りてね。それが普通だと思っていた。でも『太陽の季節』とか読んでね、おい、慶応はパッカードに乗ってるぞと(笑)。ナイトクラブにも行ってる。じゃ、おれたち貧乏なんだってそこで初めて。

■素うどんの味

石原氏 だけど僕も貧乏だった。僕は大学の寮で最後のバンカラをやったからね。外食券食堂へ行ったり。朝飯なんか食券出して素うどんで食べ残したやつを、午前九時を過ぎたら食べていいって食堂が出すわけ。それをみんな争って食べたりね。あのころの貧乏って懐かしいし、逆にものすごく豊かな感じするでしょう。
阿久氏 ええ。食べ物なんか買えないと、しょうがないから寝てるしかない。
石原氏 わかるな。
阿久氏 そのうちだれか来るだろう。だれか来たら、千円ぐらい借りようとか思ってる。
石原氏 千円なんか大金だよ(笑)。
阿久氏 月収の十分の一だからね。やっと二日目ぐらいに来たらね、そいつは借りに来るやつだったりね(笑)。じゃあ、外へ出られないんだったら本を読もうとかね。僕は昭和三十年に東京に出てきたらプレスリーがあって、慎太郎さんがあってというところにぶつかった。東京で出会ったものというのは本当にピカピカ光っていた。これ、嫉妬じゃないんですよ。湘南海岸で遊ぶヨットがあっても嫉妬じゃない。希望なんです(笑)。
石原氏 あ、なるほど。だけどもあのころ、風俗といっても情報が全然なかった。唯一の娯楽だった映画は週二本立てで、みんなあこがれて見に行ったもんだけど。ところで阿久さんは、いくつごろから文学少年だったの。
阿久氏 いや、文学少年でもないんだけど。中学三年のときにちょっと胸をやって運動がだめだということを宣告されたもんだから、そのへんから絵を描くか、文を書くかと思っていました。
石原氏 そのころから「感覚人間」だってことは、自分で自覚があったんですね。
阿久氏 いくらか。だから歌手が好きだという気持ちがないのにヒットパレードを知ってるとかね。いま、東京ではやってるのはこれだとかね。焼け跡のはずなのにパラダイスといってるのはなんだろうとか、そういう思い方をしてましたよ。
石原氏 なるほど。言葉に正確だったんだな。
阿久氏 「青春のパラダイス」と「東京の空青い空」と、「星の流れに」が同じ年に東京を舞台にしてあるのはどういうことだろうな、みたいな考え方を何となくする子ではあった。
石原氏 作詞をしたのは、いくつのときですか。
阿久氏 三十歳過ぎ。だから大学を出て広告代理店へ行って、七年もそこに勤めてて。コピーライトやテレビ、コントまで書いていました。そのうちにビートルズが登場して、GS(グループサウンズ)が現れて、専門家があんまり作詞をしなかったんですよ、GSには。あんな素人に手は出せない、と。その間に、いくらか書いていた僕らのところへ作詞の仕事がきた。それで当たった。
石原氏 阿久さんには失礼だけど、“歌は世につれ世は歌につれ”じゃないけど、ものがなかったころの歌のほうが心に染みたね(笑)。「悲しき竹笛」とか、「誰か夢なき」くらいのとこまでは切々としていたんだけどね。

■ある夜の接吻

阿久氏「悲しき竹笛」というのは、僕は戦後一番好きな歌ですよ。
石原氏(くちずさんで)「♪ひとり都のたそがれに〜」。
阿久氏 そうそう。「ある夜の接吻」というね。
石原氏 あの主題歌ですか。
阿久氏 そうです。
石原氏「ある夜の接吻」は最後、傘で隠して。それだけでね。
阿久氏 どういう接吻をするのかと思ったら、傘に隠れていたからわかんないんだけどね。
石原氏 外国人は接吻するけど日本人はしないはずだったんだけどね。風俗はどんどん変わって歌も変わってきて。ピンキーの「恋の季節」とか悪くないなと思って聴いたけど、もうそのころは歌にのめりこめなかった。風俗のほうがもっと複雑になってきて。
───裕次郎さんという存在は、気にかけていたんですか
石原氏 いや、あんまりないですね。弟はものすごく音感が良かった。三回ぐらいリハーサルするとすぐ歌う。それでは歌の情感というのは盛り込まれない。もっとしみじみ歌えばいいのにね。だから下手でも鶴田浩二さんのような、歌を軽蔑しながら一生懸命歌う。そのほうが、よっぽど良かった。
阿久氏 けど、「粋な別れ」とか最高ですよ。あれだけシンプルなメロディーとシンプルな詞を、あれだけ聞かせる。なんか気分って持ってるわけでしょう。
石原氏 もっと青春の話をしましょうよ。
───青春というと
石原氏 今は、貧乏が懐かしいですね。哲学者のレイモン・アロン、フランス人にしては珍しい英語をしゃべってサルトルの相棒だった人ですが、日本に来るたびに食事にいって会いましたよ。ちょうど日本が学園闘争の盛んなころで、その話をしたら彼がね、「私は彼らに同情します」って。「青春の青春たる条件を私たちが奪った責任がある。それは石原さん、戦争です。戦争がもたらす貧困ですよ」と。それから偉大な思想ね。戦争がなくなり、貧困がなくなったあとの、ある意味で潤沢になりすぎた社会は、若者にとっては気の毒だと思うね。
───青春の条件は貧乏ですか
石原氏 寮にいたころですが、勘定したら十五円しかなかった。寮は食事は出るんだけど、空腹は満たせない。甘食がそのころ五円。普通のあんぱんは十円。奮発して、カレーパンを買うと十三円。あれこれ金の使い方を考えたな。飲み屋に行って「金がないんで今日は合成酒を」って言ったら「いくら持ってる」。「これっ」。「それなら焼酎お飲みよ」。おふくろに、焼酎だけは飲んじゃいけないといわれてたけど「合成酒よりうまいよ」と言われたんで飲んだら、うまいんだよ。安くてね。それから僕は焼酎党になった。
───昭和二十年代後半ですね
石原氏 そうです。裕次郎が「兄貴は焼酎なんだよ、焼酎」って銀座のクラブでいう。裕次郎はマティーニだとかいうわけです。僕なんかカクテルの名を一生懸命覚えたな。小説家になるつもりもなかったときに、これがブランデーサワーとか、コースターのうしろに書いて。ちょうど阿久さんが作詞家になるつもりがなくても歌を覚え、文字にひかれたのと同じように。やっぱりありましたよね、そういうものが。風俗に対する関心というか、言葉だって風俗だからね。

■毎日が発見

阿久氏 風俗がない時代には、青年が主張するのも政治的なことをいうしかなかったのですが、昭和三十年代に東京に出てきたのがラッキーだったのは、それ以外のことで、歌でもファッションでも、もっと強い主張ができるんじゃないかという気にさせられたからです。しかも「色がついてる」って僕はよくいう。プレスリーも色ついてるよ。ラメ色だとか。『太陽の季節』もギラギラだっていう感じのなかでね、おれたち何歳でこうやって存在してて、こういうことやりたがってるよというのがあったし。毎日毎日、その焼酎じゃないけど、妙な発見してたんですよ。
石原氏 うん、そうだ、あったもんね、いろいろ発見が。
阿久氏 それなりの発見ですよ。誰かにいわれて、「これがはやりです」じゃなくて、自分たちで困って困って見つけてみたら、すごくよかった。
石原氏 そうなんだな。情報がないってことも、いいことです、金がないと同じように。みんないろいろ探索するわけ。あのころ、女の子たちはみんな裁縫をやったんですよ、ミシンかけてね。アロハシャツなんてかっこいいなと思うと頼む。頼むと、裁断して結構ちゃんとしたものを作る。みんな暗中模索というか、「暗中」じゃないんだな、「陽中」模索だな。いろんな工夫しましたよ。
阿久氏 昭和二十年代の映画人、ミュージシャンてみんなドラッグやってた。ヒロポンなんて新聞広告に出てましたよ。僕はヒロユキって名で「ヒロポン、ヒロポン」ていわれてた(笑)。
石原氏 でも、あれで異常な犯罪に走るなんて人はいなかったからね。
阿久氏 みんなきれいごとじゃなくて、ネガもある、ポジもある。けど、ネガとポジはちゃんと分かれていた。ところが今は大通りを歩いていようが、どうしようが、ネガになってしまう。
───若者も変わってきた
石原氏 ヨットでいうとこのごろ、若い男の乗り手がなくなっちゃった。三晩、四晩の、沖縄とか、小笠原レースを作ったんだけど、全然船は出ませんよ。聞いてみるとどの船も若いクルーが乗らない。もう乗り手がいない。みんな集まると年寄りばかり。変な時代になっちゃった。
阿久氏「熟年太陽族」っていってるんですけどね(笑)。けれど、まだそのほうが馬力があったりする。
石原氏 新しい歌がしきりに出てきますが、国語のできない人が書いた日記を、できの悪い人が読んでいるみたいでこのごろちっとも面白くない。
阿久氏 当事者以外に伝える気持ちがない詞なんですよ。僕とお前がいて、電話待ってたけど電話よこさないの、メールよこさないのってのを言っている。勝手にやれって話でしょ。ところが僕らまでは詞を書くということは、舞台に乗っけて空中に飛ばすことなんですよ。仰ぎ見たやつがどう感じるかな、ということを考えて書いた。他人に伝えたいという気持ちがなんでなくなったのかというのが、一番問題ですね。
石原氏 結局、自分のメッセージがないんだね。
阿久氏 恋愛ってのがないんですよ、もう。
石原氏 だから「トンコ節」じゃないけど、「言えばよかった一言を、なぜに言えない、ばかな顔して朝帰る、恋は苦しい朧月」なんてね、言葉は古いけど、そのまま時代にも通じると思うんだけど、そういう心境がないんだね。
阿久氏 やっぱり原因は、電話ですよ。恋愛関係なら会うでしょう。別れて、来週会いましょうって。来週まであなたが無事でいてくれればいいがと祈ってる。おれのこと忘れなきゃいいがって。ところが今は別れたとたんに「いま、どこ」って電話。若い人の不思議なのは、なぜ電話を持ちたがるかって。

下宿に電話がない幸せ
阿久氏 世の中の「不可能なこと」教えるのも必要


石原氏 僕は絶対、携帯電話を持たない。
阿久氏 学生時代が一番幸せだったというのは、下宿に電話がなくて、親が心配してかけてくることはない。だから親は僕が春に出かけていけば、夏帰って来るまで、うちの息子は大丈夫って一生懸命祈るしかない。いま恋愛と称しているのは、自分たちの交渉事がうまくいくかどうかだけです。だから、自分の交渉が通じるレベルの相手しか探さない。不思議ですよね。子供が何となく壊れそうになっているのは、いやですね。
───親の問題ですね
阿久氏 そうです。もう壊れているのかもしれない。実は、僕らの子供に対する思いというのは、ある種の解放しか与えなかったわけです。解放を誤解しちゃったら、今の形になりますよね。
石原氏「愛着」ってのがなくなっちゃったね。好きとか嫌いはあるけど、愛着がないんだよね。男でも女でも。親子の関係でもそうだな。ただつきまとう、そういう「執着」はあるけど。
阿久氏 この前書いたんだけど、世の中、可能なことばかりじゃないということをまず教える必要があると。けど、不可能だけでもない。だけど、不可能なほうが多いということをどうやって教えるか。今の子供たちは不可能はないと思ってるでしょう。メジャーリーグ見ててね、アメリカの子供がやけにかわいい。日本の子供は全然かわいくない。それなのに日本のペットはね、本当にかわいい顔をしてる。最近、敵があると思ってないんですよ。振る星のごとく愛情を受けているから。子供は、それに比べて実に悲しげな顔をしています。
石原氏 なるほど日本の野球場で見る子供は、楽しんでいないな。大人が全部画一的だからメガホンたたいてそれにつられて、こんなことやって面白いのかなと思いながらね。ペットの話が出たけど、僕はペットは嫌いだから(笑)。
阿久氏 昔の犬や猫は、ケンがありましたよ。今は全く外敵があると思っていない。
石原氏 いい顔してるかもしれないけど、甘えてるねえ。
阿久氏 大体、動物がこの世に敵がいないと思い込むこと自体が大変な間違い。その間違いを錯覚させる育て方が、何十年か続いてきた。ところで、笑われるってのはいやでしょう。
石原氏 それはいやですね。
阿久氏 僕もだめ。公演なんかしてて笑わせるってことはあります。こっちの計算で。けど、笑われるのはいやだ。ところが、今の日本の社会はどうやって笑われようかと、テレビに出る人も全員思っているわけでしょう。笑われる一発というのをやらなきゃならないという強迫観念を持っている。
───「受ける」という言葉をつかいますけど
阿久氏 でも、くらーい情熱でしょう、「受けたい」という心理というのは。僕は「絶対笑われるな」って育てられた。そうすると、笑われたいだけの心に満ちあふれている世の中ってなんだろうって思うのね。
───昔の言葉でいえば、媚びるというのに繋がる
石原氏 その意味じゃ媚びあってるね。政治家なんかとくにそうだね。この間もね、ある新聞社の首脳に「記者ってばかみたいなやつ大勢いるぞ。指導したらどうだ」と言ったら「そうなんですよ」というけど。でもね、それでもなお一人前と設定して、政治家は記者に媚びる。本当に、ばかばかしいと思うんだけどね。

■政治と言葉

───政治家といえば、最近の小泉(純一郎)さんの言葉ってどうですか
石原氏 あれはメールだよ。携帯のメール。語彙がなくてもいいんだよ。収斂され尽くしたとも言わないよ。歌の文句なんかは収斂するけど、小泉さんのはせいぜい伝言だね。考え尽くした言葉じゃない。
阿久氏 たとえば僕がなにかに書いたものを繰り返してしゃべるときには、「前も書きましたけど」とかって言う。言わなきゃならないから言いますよと。それ抜きで、同じことを繰り返すから伝わらないんですよ。薄まっていきます。二度目は七がけになり、三度目は六がけになり、だんだん伝わる分量というのは減っていきますからね。言葉というのは。
石原氏 ただ純ちゃんは一種の皮膚感覚みたいのを持ってるんだな。それ、とっても大事なことだと思うよ。
阿久氏 なさ過ぎますね、他の人がね。皮膚感覚が。
石原氏 政治の世界で言葉を求めてもしようがないけど、でも本当は言葉なんだけどなあ。
阿久氏 政治は言葉なんですよね。酔わされたいという気はあるんですよね。言葉で酔わされてみたいっていう。
石原氏 歌にいい文句ありますね。「どうせ私をだますなら、だまし通してほしかった。酒がいわせた言葉だと、何で今さら逃げるのよ」。歌には全部人生の教訓がある。この間も阿久さんとテレビでその話をしたんだけど、このごろ作詞家も含めて、若い人の言葉が乱れている。もの書きの文章をみてあんまり魅了されないんだよね。このごろの芥川賞の候補作は風俗的な言葉は出てくるけれども、あれはものすごく損だと思う。三年たったらもう古くなるかもしれませんね。
阿久氏 損ですよ。去年に流行していた言葉というのが実は一番古くなる。むしろ十年前だと、思い出す値打ちがある。
石原氏 そうでしょう。
阿久氏 歌だと二十年前にやったよというようなものが、結構ある。そのうちに、芥川賞候補作にハートマークがついた小説が入ってくるでしょう。
石原氏 もう出てきました。アイラブユーのことをハートマークなんかで。読んでも新しい感じがしない。昨日か一昨日の週刊誌に書いているようなものだから。僕たちが今かろうじて覚えているんだけど、ストイシズムが若い人になくなってしまった。

■秘めたる慕情

阿久氏 僕なんか、それしかないと思ってるけどね。ほんとにそうです。むしろこのごろは女の主人公にどのくらいストイックな暮らしをさせられるかみたいなことを逆に考えますよ。だって男はしようがないや。もう死んだふりでもしてなきゃという状況でしょう。そうしてる間に二十年たって埋められそうになっている、今。(口のあたりをさして)ここまできてますよ、土が。だから、もう一回、男の小説も必要だろうと思うんです。
石原氏 鍼の名人に聞いたら、男のインポテンツ(不能)ってすごく増えているんですよ。最近は女の不感症は減って。
阿久氏 男は絶対に勝てない。本来、男の意識のなかには「不能があるかも」という恐れがあるわけでしょう。それを恐れないのは何かというと、「女はなんにも知らない」という前提があったから。女が解放されたら、勝てない。永久に勝てない。
石原氏 最近の女子高生をみていたら、性の解放とかいうもんじゃないもんなぁ。(作家の)北方謙三に言ったの。「三国志とか水滸伝書くのはいいけど、君みたいなハードボイルドがうんとストイックな恋愛小説書けよ」って。ああいう人が書くと、いいんじゃないかと思う。秘めたる慕情みたいな男のストイシズムというのは、男にとっても女にとっても胸を打つものがある。
───お二人の話をうかがうと、昔の青春はときめくんですが、今の時代は落ち込むばかりで、この先どうなっていくんでしょう
阿久氏 一九七〇年まではときめきの要素が残ってましたね。経済が右肩上がりで、このくらい粋なことできるかなという気配があった。僕はその気配のときにデビューして、それをうまく書いた。例えば沢田研二が歌う一連のものは現実にはないけど、ちょっと足したらあのぐらいかっこよく振る舞えるかなっていうので。ところが今は、普通だったら収入の何割かで買い物しなきゃいけないのが、収入の何十倍の買い物ができるような国になってきた。
石原氏 そうね。ものが氾濫するってのは怖いね。
阿久氏 ものと一緒に哲学は、できないですよ。
石原氏 日本には、もともと独特のフェティシズム(盲目的崇拝)がある。例えば戦国時代に無常の恋で満足したりね。松永弾正が平蜘蛛の釜を信長に渡したら許されていたんだろうと思うけど、釜ブチ割って死んじゃうんだね。変なエピソードだけど、ああいうフェティシズムがあった。今の日本人のブランド志向とは違って、もっと高尚な感覚的なものだったと思うけど、飽食の時代というのは性に関してもそうだろうけど、そういうものはなくなっちゃったですね。
───若者たちの風俗をどうみていますか
石原氏 僕は風俗には全然驚かないんですよ。ガングロの子供たちが高げたみたいなのを履いて、ああいうの面白くてね。だけどね、ああいうものがさらに何を醸し出すかということになると、あまりないな。感覚的なものは、全然出てこない。不毛だね。彼らは不毛と感じてないんだけど、どっかでなんか自信がないんだな、このごろの若い人たちって。
阿久氏 生意気なガキはいない。危険なガキはいるけど。
石原氏 危険って、ただ危ない。
阿久氏 ただ危ないんですね。昔のいう、「あいつは危険だ」ということではない。
───殺気を感じる男がいなくなった
阿久氏 今の男は信頼しきった顔してるペットと同じ要素があるんじゃないですか。戦わなくても済むという状況においてはね。危険というのは本当は降りかかっているんだけど、死んだふりしてればいいっていうことで済ませてきた。もう二十年とか三十年過ぎている。三十年続くと、この国の常識になる恐れがあります。

■日本人のDNA

石原氏 日本人の基本的DNA(遺伝子)ってなんでしょうか。アメリカ人はやっぱり西部開拓やってたころのDNAが残っているが、これから混血が進むとどんなものかなって思う。でも日本人のDNAは何でしょう。日本人は、海から外へ出ていくことができなかった。
阿久氏 海洋国だといってるのに海の歌ないんですよ。ほとんど渚の歌ばっかりなんです。
石原氏 なるほどねえ。昔は軍艦マーチとかあったけど。
阿久氏 普通の気持ちのなかでの海というのはない。
石原氏 日本は海洋民族じゃないですよ。僕は山猿だといっている。日本の海というのは予測できない荒い気象でね。オホーツク海なんかに出ていく船が遭難するのは全部日本の近海。レーダーのなかったころですよ。低気圧の墓場の北海近くにいるイギリスは、この嵐はどれぐらいやるぞということが経験でわかる。でも日本の場合にはせいぜい二百十日、二百二十日で、これだって五分五分の確率しかない。日本人は水平線の向こうを期待を持って眺めているだけ。このごろ、そうなっちゃったんじゃないか。「…遠き島より流れ寄る椰子の実一つ、ふるさとの島を離れて…」。拾って割ってみたらうまい、これはどこからきたんだろうって。未知情報、情報、情報をただ待ってる。それを作るとか、取りに行くとかというものがない。
───日本の将来は
石原氏 だんだん溶けているね、この国は。テポドンでもノドンでもいいから、一発北朝鮮から撃ち込んでもらったらシャンとするかもね。いや、これ半分本気、半分冗談だけど。北朝鮮にそんな能力はないと思うけども。
阿久氏 溶けるというのは実に生理的によくわかって、とっても怖い感じがする。本気にしないなら本気にしない強さがあればいいんだけどね。大騒ぎするわりには横着なところがあって、本気で自分を変えようとしない。そこが一番問題だろうと思う。ただ、さっき話した昭和三十年代にあったものが、あったんだから見つけようと思ったらあるかもしれないという程度のことは思っていたい。日本は、もう少しましな国だったはずだというのもあるしね。
石原氏 何が一番懐かしい生活かといったら青春の、貧困な部分ですよ。貧乏というのは本当に懐かしいし、甘美だし、豊かだしね、それがわからない人には…反論を聞きたいんだけどね。どうも阿久さんと私が話してると、お互いに心の傷をなめあっているから(笑)救われない。
阿久氏 日本人はほんとに律儀なのか、ほんとに器用なのかなど「日本人の資質」十三項目をこの前、新聞に書きました。そのうちの何項目が今残っているんだ。正直だとか、努力家だとかいうもの。自分たちで決めたものもあれば、よその国の人が評価してくれたものもある。それを信じてそんなふうに振る舞いたいと思ってきたのが、全部なくなってしまったんだろうか。その程度のことは確認できるわけじゃないですか。自分でも親子でも、そこから始めなきゃしょうがない。

■いしはら・しんたろう
昭和7年、神戸市生まれ。70歳。一橋大学在学中の昭和31年『太陽の季節』で34回芥川賞。昭和43年に参院全国区でトップ初当選。47年から衆院議員に転じ環境庁長官、運輸大臣を務める。平成11年に東京都知事に初当選。15年に308万票を得て2期目当選。趣味はヨット、ゴルフ、テニス。著書に『弟』『法華経を生きる』など。

■あく・ゆう
昭和12年、兵庫県五色町(淡路島)生まれ。66歳。明治大学卒業後、広告代理店を経て放送作家に。43年から作詞を始める。ピンクレディー、沢田研二らのヒット曲を次々と書き、日本レコード大賞や日本作詩大賞の常連となる。54年『瀬戸内少年野球団』が直木賞候補になり、映画化された。代表作に「北の宿から」「UFO」など。

■太陽の季節
石原慎太郎氏が一橋大学在学中の昭和30年に発表した小説。湘南などを舞台に若者たちの青春を描き、話題を呼んだ。翌年、第34回芥川賞を受賞、映画化された。実弟の故石原裕次郎さんの映画デビュー作になったほか、「太陽族」と呼ばれる若者たちが登場し、「慎太郎刈り」が流行するなど社会現象になった。昨年、リメーク版がテレビドラマでも放映された。

■瀬戸内少年野球団
昭和54年に発表され、直木賞候補にもなった阿久悠氏の代表的小説。阿久氏が少年時代を過ごした敗戦直後の淡路島(兵庫県)での思い出をもとに、野球に夢を託した子供たちと担任の女教師との心の触れ合いを感動的に描いた。昭和59年に篠田正浩監督とのコンビで映画化され、夏目雅子の主演で話題となった。

■日本人の資質
阿久氏が7月22日付の産経新聞「正論」欄で指摘した。かつての日本人が持っていた資質を列挙し、「今、いくつ残っているだろうか」と記した。挙げられた資質は次の13点。器用▽勤勉▽正直▽優しい▽頭がいい▽きれい好き▽努力家▽愛国者▽謙虚▽忍耐強い▽シャイ▽礼儀を重んじる▽志が高い。

■ヒロポン
戦争中に軍が使ったといわれる覚醒(かくせい)剤の一種(ベンツェドリン)の商品名。戦後、密造されヤミ市場に流れた。水に溶かすだけで注射できる平易さから、昭和26年に法律で禁止されたころには100万人の常習者がいて、そのうち2割ほどが中毒だったとされる。禁止前には新聞に「眠気と倦怠除去にヒロポン」という広告が掲載されたこともあった。常用により幻視、幻聴といった中毒症状がでる。

対談する石原慎太郎氏と阿久悠氏。青春時代を語りながら、若者たちに厳しい言葉も贈った(写真キャプション)。